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追悼・ジョージ秋山「語りえないもの」を描いた天才『捨てがたき人々』

今回は何度か紹介しようと試みては断念してきた作品、『捨てがたき人々』(小学館、幻冬舎)を取りあげる。

6月に入り、作者・ジョージ秋山氏が先月亡くなっていたことが明らかになった。この機会に書くしかないだろうと腹を固めた。以下、敬称略で書き進める。

書くのを諦めてきたのは、この作家の作品に正面から向き合うと、「すごい」の先につなぐ言葉が浮かんでこないからだ。それはジョージ秋山が、村上春樹が言うところの「地下二階」、魂の住む場所まで降りていって物語をつかみ取る稀有な資質の持ち主だったからだろうと思う。

「人間心理の根っこ」に手を突っ込む力

最初に白状しておくと、私はジョージ秋山の熱心な読者ではない。

繰り返し読むのは『銭ゲバ』(小学館、幻冬舎ほか)と『捨てがたき人々』の2作のみ。『アシュラ』(幻冬舎ほか)などその他の作品は単行本などで触れ、代表作の『浮浪雲』は掲載誌の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)を手にとった際に読んでいた程度だ。

敬して遠ざけてきたのは苦手意識によるところが大きい。

最初に出会ったジョージ秋山作品は1981年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載された『シャカの息子』だった。

『Dr.スランプ』『キン肉マン』『キャプテン翼』などを楽しんでいた小学校低学年の少年にとって、それはトラウマもののショックだった。

執筆にあたって『シャカの息子』をKindle版で再読して驚いた。

「シャカの息子」を名乗る謎の青年が世界的な陰謀組織の支援のもとで、山奥の村に核武装した地下都市を建設しようとする荒唐無稽な設定で、それでいてジョージ秋山作品を特徴づける「カネとセックスと宗教」というファクターは濃厚に流れている。よくこんなものを少年誌に載せたものだ。

脈絡もなくぶった切るような幕切れを含め、上質な作品とは言い難い。それでも、1度も再読していなかったのに、40年の間、この異色作の一部のシーンと「ツツガムシ」というキーワードは、私の脳内に居座り続けてきた。

この時代の漫画、特にホラーものには、設定やストーリー展開は「ガバガバ」なのに、原初の恐怖心に訴える力がある。日野日出志の一連の作品や古賀新一の『妖虫』(秋田書店)楳図かずおの『赤んぼ少女』(小学館)などがトラウマになっている方は少なくないのではないだろうか。

そうした作品群と同様、ジョージ秋山の作品は人間心理の根っこに手を突っ込む力を持っている。その手が読者を作品の中に引きずり込み、普段は意識を向けないようにしている業の深い部分に直面させる。

何度も再読している『銭ゲバ』と『捨てがたき人々』も、心に余裕がないと通読するのは難しい。そもそも手に取る気になれない。だが、いったん作品世界に入り込む覚悟を決めれば、読むたびに初見のような新鮮さと驚きをもたらしてくれる。怖いもの見たさのような中毒性をもった独特の読み味がある。

「生きてんの飽きちゃったなあ……」

まず『捨てがたき人々』について簡単にまとめておこう。

主人公の狸穴(まみあな)勇介は、職を失って生まれ故郷に戻ってきたものの、家賃にも食費にも事欠き、「生きてんの飽きちゃったなあ……」とうそぶく。その勇介が通う弁当屋で働く岡辺京子は、新興宗教「神我(しんが)の湖」の熱心な信者で、悟りを開いて「解脱する」ことを人生の目標としている。

勇介と京子は容姿の醜さと劣等感、恵まれない家庭環境という共通点を持つ。勇介は同情につけこんで京子をレイプし、孤独な京子はその関係を受け入れ、そのまま成り行きで「愛無き結婚」へなだれ込む。結婚後も「食い物とセックス」しか頭にない勇介は目に入る女という女に欲情し、京子も「解脱」からは程遠い生活を送る。

この2人以外の登場人物たちも、煩悩にまみれ、何かを成し遂げるわけでもなく日々を送り、年を取っていく。その姿がコンプレックスと性欲の塊である勇介の視点で描かれる。

本作には、普通の意味で魅力的なキャラクターは1人たりとも出てこない。

勇介は、生い立ちや考え方には『銭ゲバ』の蒲郡(がまごおり)風太郎に通じるものはあるものの、風太郎のような傲岸不遜な悪のオーラもなく、卑屈さに満ちている。これでもかと続くセックス描写は、醜悪という表現がぴったりな生々しさだ。

筋立てもなしに短いエピソードが脈略なく続くだけで、キャラクターの造形も丁寧ではない。勇介の子供時代や京子の思春期の回想は厚めに描かれるものの、読者が共感できる一貫性をもった物語として語られることはない。

それなのに、登場人物たちは作品世界のなかでリアルに息づいているのだ。

タイトルの通り、「捨てがたき人々」として、実在の人物のように読み手に迫ってくる。読むたびに、「どうしてこんな芸当ができるのだろう」と首をかしげるしかない。

繰り返し引用される『ヨブ記』

この特異な作品は、勇介が帯びる「神性」によって、こうした「市井のリアリティ」以上の達成を成し遂げている。

無学なはずの勇介は時折、知るはずもない宗教概念を口にする。この独白については「前世」との関係がほのめかされ、試練として不幸な身の上に生み落とされる胎児の記憶が挿入される。

この枠組みのなかで強い印象を残すのが、繰り返し引用される旧約聖書の『ヨブ記』の一節だ。

なにゆえ わたしは胎(たい)から出て

死ななかったのか? 腹から出た時 息が絶えなかったのか。

なにゆえ乳房があって それを吸ったのか。

そうしなかったら 私は伏してやすみ

眠ったであろう……安んじており

自分のために、荒れ跡を築きなおした。

なにゆえ わたしは ひとしれず堕胎(おり)る

胎児のごとく光を見ない、みどりごのようで

なかったか。かしこみては悪もあばれる

ことをやめ、生みつかれた者やすみを得、

捕われびとも共に安らかになり。

追い使う(ひどくこき使う)者の声も聞かなかったのに、

ただ悩み

苦しみのみが

来る。

わたしは

安らかではなく

おだやかでない。

わたしはやすみを

得ない。

ただ悩みのみが

来る。

(旧約聖書『ヨブ記』3章、『捨てがたき人々』の抜粋・表記ママ)

このくだりは、理不尽な不運に見舞われたヨブの嘆きだ。家族の死や自身の病などヨブの身に起きた数々の不幸は、サタンの挑発に乗った神が与えた試練だった。

「信仰心は純粋な神への信頼ではなく、功利的な動機によるものにすぎない」

とのたまうサタンへの反証として、神はヨブの信仰を試した。

この「なぜ罪なき人の苦しみに神の救いが顕れないのか」という「義人の苦難」は、ユダヤ教やキリスト教に限らず、宗教の一大テーマだろう。ヨブ記は『銭ゲバ』でもクライマックスへの助走のパートで引用される。両作品の四半世紀の隔たりを考えれば、聖書そのものの漫画化も手掛けたジョージ秋山にとって、これはライフワークともいえる題材だったのだろう。

なぜ、そもそも人は、苦難に満ちたこの世に生れ落ちるのだろうか。

この問いは、よほど恵まれた人でなければ、誰もが1度は抱く感慨だろう。

最後にとってつけたような救いのあるヨブの物語と違い、『捨てがたき人々』はカタルシスのかけらもない幕切れを迎える。掲載誌の廃刊という事情が影響しているのだろうが、救済の不在という点はやはり絶望的な『銭ゲバ』のラストに通じる。

「『命がけで生きろ』だよね」

では、ジョージ秋山はニヒリズムに憑かれた作家だったのかと問われれば、そうではない。それどころか、作品群が放つメッセージは正反対の人間賛歌だ。エロとグロ、露悪的なまでの人間の業を描く作品の向こうに、それは見えてくる。読み手を選ぶ作家だ。

ヒントになるコンテンツを紹介したい。田中圭一によるネットマンガ『田中圭一のペンと箸−漫画家の好物−』だ。

ジョージ秋山の長男をゲストに迎えた回では、社会問題化して連載中止となった『アシュラ』の構想と、ジョージ秋山が息子を「命(いのち)」と命名した興味深い裏話の関係が明かされている。

連載が中絶しなければ、アシュラは最後は仏門に入り、「命」と命名されていたという。その名を授かった息子は、父の作品を読み込むうち、名前に込められた真意に気づき、こんな会話を交わす。

「オレの名前の由来『命を大切に』じゃないよね」 「……じゃないよ」 「『命がけで生きろ』だよね」 「ああ そうだ」

人の世の不条理への絶望を提示しながら、説教臭なしで「命がけで生きろ」と説く。 そんな創作は、稀有な才能に恵まれた小説家や「語り部」にしかできない芸当だ。

神話や口承文学に近いもの

手元の2000年刊のソフトマジックによる『銭ゲバ』愛蔵版は、巻末に貴重な著者インタビューを収めている。その中で、ほろ酔い加減のジョージ秋山自身がこう語る。

「モーツァルトは生まれたときから音楽家だったの。教育なんて受けてなかったんだから。漫画家にもそういうのが一人ぐらいいたっていいでしょう。もうこんな作家は登場しません! そうでしょう?」

(「ジョージ秋山、ロング・インタビュー『オレは今でも銭ゲバだ!』」より)

数千字を重ねてきた本稿を読み返して、私はため息をついている。

頭でっかちの私などでは到底語れないほど、ジョージ秋山の作品世界は深い。

それはプリミティブな語りであり、プロットの構築やキャラクターの造形といった洗練されたコンテンツ作成のノウハウから逸脱した、もっと本源的なものだ。神話や口承文学に近いものであり、安易な計算ずくの作劇術では醸し出せないエネルギーをはらんでいる。

だからこそ、「頭でっかちの読み手」である私は、ジョージ秋山の作品を敬遠し、一方で再読せずにおられない引力を感じてきたのだろう。

ジョージ秋山は「語りえないもの」を語れる、稀有な作家だった。

私に言えるのは、それだけだ。

贅言を尽くしても詮はない。ただ遺された作品を読もう。

ご冥福をお祈りします。

高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら→https://note.mu/hirotakai ツイッターアカウントはこちら→https://twitter.com/hiro_takai

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(2020年6月12日フォーサイトより転載)